honnoniwoi

迷えるアラサー女の戯れ言。ままごと。

気づきの必然性

今日一日ひたすら考え事をしている。

自分のこと、人のこと、生き方、仕事、目的

 

結論が出たと思ったら次の疑問が湧いてきてしまうからきりが無い。

 

今どこで止まっているかというと、

人間性というベースを持ってることは人類皆共通で、後付けの価値観によって無意識的に色んな性質を備えていくのならば、人が自分の性質に気づくのは必然なの?

その人生を緻密に再現していったらそこで気づくようになっていたの?

 

気づこうとしたから気づいたの?

 

そもそも気づこうとしたことはやはりその人の人生を再現していけば当たり前のことだったのかな。

 

どこまでも、気づきさえも自分で選んでいるのかな?偶然っぽい顔をしてるけど、気づきは必然か?

 

 

気づいたとて考え方や行動がクセづいていて変われないこともあるのか?

でもついついこうしちゃう、なんてことこの世に存在しないと思うんだ。

絶対に行動に目的はある、クセとかないのかも。

 

ありのままの自分を受容したいと思う反面、気づいて常にアップデートしていきたいとも思う。

でも全知全能の神ではない人間である以上、今この瞬間までが自分。

皆そう。不完全!

 

だしロジハラなんて言葉があるけど、自分にも他人にもロジハラしちゃいけない。

 

ロジハラってロジカルハラスメントということらしい。

一向にその人が置かれている状況などを想像しないで、ただただ正論で相手を心理的に追い詰めることを言うらしい。

 

 

とはいえなぁ、じゃあロジハラする他人ももちろん不完全だからと言って受容できるだろうか?

 

うーん‥

みんな不完全だからある程度は受け入れる‥。自分も。

 

 

けど‥、人を遠ざける行いをする人はやはり受け入れるわけにゃあいかないのではないか?

 

その人も何かしらで苦しんでいるとしても、、

そこのボーダーラインが難しい。

 

 

気づくつもりの人かどうかを見極めるのか?

でも今現在、ロジハラしている人が果たして自身の性質に気づくつもりがあるのだろうか?

 

出会う人による‥?いや、気づくつもりがなきゃ誰と出会っても気づかないのでは‥‥。

もしくはよっぽどの大事件があったら自身を顧みるに至るか。

 

 

いずれにせよ、自分のことのように他人を見れば解は導き出せる気がしてきた。

 

 

自分に許可しないことは他人にも許可しない。

 

 

つまりそれは、人に寄り添わない行いを許可しない。っつーことかな。

 

 

 

 

他との繋がりを模索する

最近真面目が服を着て歩いているというような人に出会って、自分も以前はそうだったと振り返るに至った。

 

過剰に真面目な人はとにかく自分に「課している」事が多い。

多いというか、課さなきゃダメというくらいに課すことへの想いが強い?

課しているもののせいでいつも何かと戦っているような、何というか辛そうに見えた。

自分のままではいけない、とでも言うような苦しいエネルギーを秘めている感じ。

 

その人と接するうちに、私たちはなぜこうまでして自分を追い詰めるのか?と疑問に思った。

そうまでしてなぜ課すのか。

私の場合は今の自分では愛されない、という劣等感を感じているからだ。

さらには他人を信じられていなくて、自分一人でやらなくちゃと感じている時なんだと思う。

 

そういう自ら勝手に作り上げた世界越しに、世界を当てはめている傾向は誰しもあると思う。

 

 

 

そういえば以前ツレとの会話でこんなことがあった。

 

「親へ申し訳ないという気持ちが強くて、仕事のことで挑戦したいと思っても楽しいことを追いかけることが本当に申し訳なくてどうにも動けなくなる。」

とツレに言ったら、

「それ申し訳ないじゃなくて、ありがとう、に変えてみな。直接でも手紙でも日記でもいいから、まずそこからや。」と言われた。

試しに日記にありがとうの気持ちをツラツラと1ページ吐き出してみた。

 

すると不思議なことに書いているうち、私は私だったんだ、親とは別の人生を歩んでいるのだ。と気が付いた。

 

一個人の私、という線引きをしたら周りが見えるようになった。

周囲が自分の為にしてくれること、自分が周囲の為にすること、がすっきり見えるようになった。

 

そこまでの私は親から剝がれ切っておらず、親の足かせのような気持だったのだ。

 

 

そしたら「今の自分でごめんなさい」と思うことこそ、この世に産んでサポートしてくれた親に申し訳ないことなのじゃないか、と。

最高に幸せになることが関わってもらったすべての人への最大限の感謝の表し方。

 

だからその日記の締めくくりは、これからもっともっと幸せになります。だった。

 

 

 

 

同じ感じで、過剰に真面目な時もきっと自分しか見えてないのではないだろうか。「過剰に」の場合に限るけども。

 

 

逆にそういう気持ちが湧いた時こそチャンスっぽい。

 

今の自分はここまでは出来てここからは出来ない、で良いのではなかろうか。

ひっくるめて自分。

自分にとっての他人も皆全く同じで、そう。

出来ようが出来まいがもれなく愛される。

 

大事なのは一人で何ができるかじゃなく、どうやって人と助け合うか。

 

 

人ってそんなに大差ない。

 

 

そう思うと豆の集合体が個体差を競っているかのようで笑えてくる。

いや、人は豆ほど単純じゃないけど。うーん、太陽から見たら豆なのかな。

 

 

 

 

 

非日常な一日の余韻…温かい休息が必要

先日、33歳の誕生日を迎えた。

お昼からツレとお寿司を食べ、ハイボールをぐびっとやったものだから私は大変愉快な気持ちであった。

 

その後、神楽坂をぶらぶらしてから神保町へくりだして古本をあさり、お宝を2冊発掘。

お天気も良くて、ずっとツレと歩きたかった場所を歩けたことが嬉しかったし、こんな日が毎日続けば幸せだな、とか温かい気持ちになった。

 

夜は神保町でビールを楽しんだ。

いつも行かない土地、いつも行かないお店で飲むとワクワクが止まらない。

挑戦心が高まって、新境地が開けた気分だ。

 

日常の中の非日常もたまにはいいね。

 

 

 

 

そこから2日経って、本日。

どんなに楽しくても幸せでも、その時間はずっとは続かない。

疲労は押し寄せるし、やるべきことは押し寄せる。

 

だからこういう時は、落ち込みがちなのだよね。

何かわからないけどただひたすらにやる気が出ない。

 

 

まぁ仕方がないさ、過去を追いかけてもしんどいまま。

 

 

こんな時はさっさとお風呂に入って、温かい物をゆっくり食べて、良い匂いを嗅いで早く寝ちゃうのがいい。

 

無理して運動したり家事したりしないことだ。

 

それが今できる、元気を自分で作るための最良の選択だと思う。

 

 

 

そうすれば明日の朝には復活して、一気にやるべきことをやる元気が満ちているんだ、きっと。

 

 

ということで、本日は勢いよく布団へダイブします。

 

布団さん、痛めつけてごめんなさい。今夜もよろしく。

 

遊び心のルーツとは

今日は32歳最後の日だ。

最近、こういう節目をしっかり感じることで「気がついたら10年経ってた!症候群」を防ごうとしている。

 

昨日は雪と雷と強風という、お天気マークのデパートのような日であったが今日は大快晴。

大学時代の同期とピクニックへ出かける。

 

なんだかんだこの友人とは14年の付き合いである。

 

キャプテン翼のボール、レジャーシートを持っていざ出陣。

 

 

気がついたことがある。

18歳からの付き合いであるこの友人とは始まりの4年間苦楽を共にし、卒業後もしょっちゅうではないが定期的に会ってきた。

もはや二人の間に新鮮味は無い。

 

真剣な話はしない。最近考えてることも話さないし、悩み相談もしない。

 

じゃあ何をするかというと、本気で「遊んでいる」。

 

私、遊び心はこの友人から教わった。

 

好奇心の塊のような人なのだ。それくらい、遊びに長けた人だと感じる。

 

世間体とか何にもなくて、気になるからやってみる。食べてみる。歌ってみる。

のような、好奇心の使い方が素敵なのだ。

 

 

私は彼女との出会いで、かなり自由になったと感じている。

 

だから定期的に会うことで、固くなった心のロックを外して遊び心をチャージする。

 

 

 

32歳最終日にチャージ出来てよかった。

 

明日から33歳が始まる。

好奇心を忘れずに行こう。

 

 

 

トングとの日常

今朝洗い物をしている時にふと、このトングのお陰で料理ができた、ありがとうって気がした。どうした?私。

そんでこのトング、敵っていうか、面倒くさい存在になるときもあるのだよね。

例えば溝の部分に調味料がこびり付いて固まって取れない、とか。

留め具で開かないようにして置いたつもりが勢いよくバーンって開いちゃって食べ物が飛び散る、とか。

あーーーーーもーーーーーってなるんだよね。これ。

 

 

私のそばで一生私を絶対的に安心させてくれるものなんぞ、世界中どこにもない。

 

だから一瞬に感謝なのね。

トングの特性と私のトングへの接し方が上手く合致したから料理できたわけで。

 

 

人もそうかしら。

私自身、コンプレックスの仕業で人にごめんなさいが言えなくて不快にさせたこともあれば、何気なく心を配ったことが結果喜ばれるときもある。

 

 

 

この人のそばにいれば安心、私は守られてる、楽ができる、なんてことは絶対に絶対にないんだよね。

 

その人にも色んな瞬間がある。

それは私には操作できない。

 

そう思っておけば何かが敵に見えることなんてないかもな。

 

何かって、トングや冷蔵庫やドライヤー、風や雨や日差し、そして人、など全て。

 

一人で過ごしていると思って部屋に居たとしても、私の下に絨毯があって、目の前にコーヒーのポットがある。

常に何かと共存してる。びびりズム。

 

 

全ては私の思う通りに動かない。 

その人や物の得性と、私の想像力の掛け算で、上手く共存出来たり出来なかったり。

 

 

 

ってことで一瞬一瞬に感謝する。

今日はトングに感謝。

日常ちょっとしたことで、温かくなったり冷たくなったりの繰り返し。

 

 

 

 

 

春の贅沢時間に意気込む

とにかく花粉症がひどいものだから、予防線として外に出るときはマスク&眼鏡は必須アイテムだ。

ただ様々な対策の効果あってか、最近あまり症状がでない。

そこで今日の帰り道ふと思いつきで、マスクをとってみた。すると、

 

ふわぁぁぁ~

と香った…

 

春の匂い!🌸

 

 

びっくりした。

こんなに強く春の匂いがしていたのにずーっとマスクしていたせいで気が付いていなかったなんて。

気が付いていなかった期間分、損した気分。

 

とはいえ春の匂いって無性にワクワクする。

ついさっきまで楽したいな~って言う、何というか世界から遠ざかっていく気持ちだったのに、よし、やれることからやるぞって気持ちになる。勇気が湧く。

 

 

 

そういう所、地球も人間も素晴らしすぎでは?と感じる。こんなに繊細で、移ろいやすくて、奇妙な空間、宇宙のどこを探してもないでしょ?

 

地球で良かった。私たち人間、本当に皆ツイてる。

 

日差しがポカポカだからうたた寝に最適だし、家事の後、おやつとコーヒーで一服するのも楽しいし、外で本を読むのも最高に贅沢な時間だよねぇ。

 

春って一瞬なのよね。

気がついたらもう5月には暑い!って感じているし。

この、暑くもなく寒くもなく、絶妙な春の気温がいい。

 

一瞬の贅沢時間だと思うと、これは計画的に堪能したくなるな。

 

 

私、今年は春を謳歌することに決めた。

 

 

 

全力でうたた寝することに決めた。

 

 

あ、あと、ピクニックは行ける限り行くのだ。

 

燃えるぜ。

 

 

 

 

 

 

 

ハイボールの夜に思う

映画「Hanpstead」を観ながら、最近の自分の記憶にリンクして気が付いたことがある。

人間は簡単には心が通わないし、それなのに相手が自分のことを100%分かってくれてるって無意識に強く感じがちなのだと。

不思議なことに、お酒を飲むと友好的な気持ちになって、相手も友好的だから最高の時間を過ごしていると感じる。これぞ人間の心が通った瞬間なのだと、お互いがお互いを受け入れている。

 

でも翌日の夕方頃には、人はやっぱり一人なのだとすぐにわかる。

 

自分だって分らない一瞬先の未来を他人と共に過ごしているのだ。

予定調和なんてこの世界に存在しない。予定調和を目指せば人は心身悪くする。

 

 

科学する心で生きてく。これが我々に課せられた人生の歩き方なのだ。

 

 

楽をして人と心を通わせられるのがお酒。

でも次の日にはそれが幻だった気が付く。

やっぱり人は色んなことを考えて生きているから。

 

100で相手を受け入れているはずはない。そうであって欲しいけど。

 

でも、そういうことを実現できる可能性を秘めた最強に近しい人間が、ツレ。

ツレになってからの試練だってそりゃある。

けど、ツレになるまでの私はツレともっと心が通い合う所をイメージしーつまり可能世界を目指していたしー、そして諦めなかった。諦めたら未来が消えるから。

 

 

 

ツレだけじゃない。

 

可能世界を目指して他人と生きていく。そして予定調和に当てはめない。

 

それが生きるコツなのだと、未熟な三十路が思うハイボールの夜。