honnoniwoi

迷えるアラサー女の戯れ言。ままごと。

ダイエットで見えてきたこと

7月の終わりからダイエット目的で食事習慣と運動習慣を見直して、せっせと毎日取り組んできた。

 

と言ってもルールは毎日記録する事だけにとどめた。

 

何と言ってもルール嫌いの自分が自分にルールを課したところで続くわきゃあ無いと確信があった。

 

すごく苦痛なのは、食べ物は足りてる、栄養バランスもまぁまぁ良し、でも食べたい、みたいな日が何日かあること。

刺激を欲しているんだろうな、これって。全部が全部じゃないだろうけど、お出かけして羽目を外した翌日にそういう食べたい欲が続く。

ただそれを一時的に満たしたところで次の食べたい、が来る。

 

ちょっと話が離れるが、価値観に従って行動を起こす時、それこそ自分の真実が露呈する時だから当然大きな感情のうねりみたいな強い、自分を後押しする何かが起きるものだと思っていた。

 

でも最近、この食欲の波を見ていて思うのは、刺激というのは中毒に近い。

ヘルシーではない。

そして価値観って自分の生きる道筋だと思うのだが、自分を生きることは価値観を体現することだから、もし自分を生きたいと自分が願うなら、刺激を追いかけるのは自分から離れてしまうんじゃないのか…。

 

ってことは少し戻ると自発的な行動の中身は、刺激とは逆の感覚、無とか平穏があるのではないのかな。なんなら無意識かもしれないし、その時になってみないと分からないけど。

とにかく謎の食欲の波の中に私はいない。

 

あと、楽しい、という感覚についても考えてた。

究極の楽しい、を私はつい最近まで追い求めていた。それこそ大きな強い感情のうねりがやってきて、満たされるのだ、と。

でも違う気がしてる。

それはもう中毒をおこすようなただの刺激に過ぎない。

究極の楽しいは、自分が追い求めて行動した中にあって、意外と鈍い感じな気がしてる。

え。これ?って感じるんじゃないか。

もしくはすごく繊細。自分が求めてるから見えた、でも求めてなきゃ絶対見えなかった。みたいな。

 

すごく集中して生きないと掴めないのかもしれない。

わたし究極に楽しい、にたどり着けるのかな。わからない、でも追い求め続ける。

 

究極に楽しい、だけじゃないけど、なんか色んなことが日々見えない所に転がっている気がしてる。

そこにあるのにエンタメ的に強い刺激で満たそうとしてしまう。

 

耳をすまさなければ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

胃のあたりの重たいあれが消えた朝

昨夜の私は疲れ切っていた。

けして仕事はいつもより忙しくはなかったはずなのだが、玄関の扉を開けて買い物帰りの巨大なエコバッグを左肩からおろした頃には、性も根も尽き果てていた。

 

少しでも気を紛らわそうとして道中付けていたイヤホンから流れるラジオの声も虚しく素通りし、頭の中には先程まで会っていた職場の人間、もとい上司の嫌〜な動向が渦巻いており、それと共に胃のあたりにはなんと、エコバッグよりも鈍く重たい感情がぶら下がって離れないでいる。

 

決して愚痴を言いたいわけではない。

 

ただ、疲労というものは大方人間関係の悩みからやってくる。しかも、元々は特定の人物限定の疲労だったはずが、そこを呼び水として無差別に対人疲労ががんがんたまる。

その疲労貯金の目的はきっと他人を遠ざけるためにあるのだろう。

この疲労をリセットするのに重要なのが、私の中で折り合いをつけるってことなんだと思う。

相手の問題と私の問題をごっちゃにしないのだ。

ちなみに私の問題は必要ならば相手に理解してもらえるように言葉をつくす努力をすればいいものを、つくす言葉のレパートリーが少ないのと、それならばと、相手に察してもらい楽しようとしてるってこと。

そもそもどの程度理解される必要があるのかってところも含め、すっきりしていない。

誰しもに理解され愛されようなんて非常に贅沢なことを考えてる所もある。

私は自分でそういうのをしこたま試す前に、言葉と態度を引っ込めちゃう。結局それでいいやって納得しているなら良いんだけど、あんまりにも引っ込めが過ぎるものだから、疲労貯金。

 

 

そういう自分の問題から目をそらしていた。なんなら此度の上司との関係性とか考えてた。そげなこと考えても答えは出ないに決まっていて案の定、疲労貯金の目的通りのシナリオを歩んだ。家族のような大切な人まで自分から遠ざけたくなってしまった。

それだけは絶対に嫌だ。自分が大切な人を大切にできないのは何かがおかしい。

 

しかもなお悪いことに疲労貯金が満たんな頃にはもう、大切な人の悪いところ探しとか始めてしまう。それが口から出たら最悪な事態だ。

 

だから昨夜は大変だったのである。

めっちゃ疲労貯金と奮闘する羽目になった。

「これは疲労貯金のなせる技、だから『フライパンにそんなに油入れないで』とか口出ししちゃ駄目。」

と思って頑張ったけど、負けちゃった。

「味付け私やる」

とツレに不機嫌ダダ漏れやっちゃった。

 

あくる朝、私はめちゃくちゃ疲労貯金をリセットしていた。

寝て起きると胃のあたりの重たいあれは消えているものだ。変わりに他人と自分の間にしっかりと線引きがなされている。

対人すべてを遠ざけていたわが身を反省し、コーヒーをすする。

さぁ、どうしたものか。

とりあえず、全く関係ないけど朝むくっと起きてきて、なんとのどを潤す分のお水がなかったツレに、昨日の分も含め相手が驚くほど謝っちゃった。

 

次からはもっと上手くやれる。

疲労貯金が満タンになる前に、線引きするのだ。

現場ではまだ無理かもしれぬので、帰り道やトイレでも良い。一回心の中で「黙れ!!!ソナタは美しい!!!」って叫ぶしかないか。

なんか台詞ごっちゃだけど…。(もののけ姫のモロの台詞とアシタカの台詞だ)

 

 

 

浦島太郎事件について記す

やりたい事リスト100を3か月かけて書き終えたわけだが、その時起きた浦島太郎事件について急ぎ足で書く。

 

私は昔から決断が苦手。

 

迷っている時間は好き。

 

苦手といえども今まで自分で決断を下したことがない訳ではもちろんない。

苦しみつつなんとか下す。私のパターンはそれだ。

 

だがここ数年、そのパターンにすら暗雲が垂れ込めてきた。特にコロナ期を経て、決断への苦手意識がさらなる扉を開けたのだ。

その結果、決断を下すスピードがあり得ないくらい遅い。二度見なんて生ぬるい、五度見は出来るだけの時間があるだろう。時には決断を下すのを避けて通れる道を探すようになり。

 

 

自分の中だけで完結する話なら良かったのだが、割と他人にご迷惑をおかけするレベルまで到達してしまったように思う。

 

 

ミッション、人と生きていける所まで苦手レベルを下げねばならぬ。

と聞こえた、心の声が。

 

それにこのままじゃ、あーでもないこーでもないと言っているうちに何かが寿命を迎える気がする。

そう一抹の不安を覚え、手を出したのがやりたい事リスト100。

 

 

正直、3か月は長い戦いであった。

新調したノートの最初のページに1から100までの番号をふったはいいが、そこからはペン回しタイム。進まない、進まない。

 

 

キャンパス選びも迷いに迷う。

 

 

一個一個吟味しちゃう。

本当にやりたいのか?やっつけで量産的に書いてない?と自分に問うた。

 

驚くほどにめんどくさい奴である。自分でもそう思った。

 

 

それでも何とか書き終えた。

さあ、ではこの決断に従って、ガツガツクリアしていくのだ、と昨夜書き終えたリストを最初から丁寧に丁寧に読んでいった。

私にとってお楽しみの時間だ。100個も決めたのだ。重労働だったわけだ。

ちなみにリストの中身に着手するのは100個書き終えてから、というのも迷いつつ決めたルールだ。

 

 

が、なんと既に10/100クリアしているではないか。 

 

誤解のないように補足すると、「やらなきゃリスト」じゃないので今回はやることがすでに決まっているものについてはリストにあげていない訳なのであるが。

 

軽いショック。

 

つまりあれだ、言語化するより現実のが速かったのね。風のごとく。

 

私の時間は、「100個も決めた!」ってところで止まってるだけに「はい10個クリア!」じゃなくて「え、あ、10個クリアしたの?」のテンション。

変な表情になっちゃうなこりゃ。

 

 

私ですら変な表情になるのだから浦島太郎さんの顔は、何かもうぐにゃぐにゃだったのだろうな。すんごい。

 

 

 

 

 

 

 

まだそんなに人間出来てないのでチャレンジ&再出発

先日、ものすごくやる気に満ち溢れて挑戦した事があった。

私にとって願ってもないチャンスが到来したのだ。

 

結果はどうあれ挑戦出来たことがまず嬉しかった。だから、どんな結果でも受け入れられる。と、ほっこり思っていた。

 

 

残念な結果になったのであるが、想像以上にダメージを受けた。結果を待つにあたって良い結果を想像し過ぎていたのだ。

 

それもあるし、結果というものは本当に辛いものだと改めて思った。容赦がないから恥ずかしさも感じるのである。他人を羨ましくも思うのである。

 

 

 

だが結果は結果、自分は自分なのだ。

結果と自分は別物なのだ。

 

自分が何を好きで、学び、慈しみ、高め、大切にしているか、そして今のこの瞬間からすべての自分を受け入れることが出来るか、認めることが出来るか。

そうなのだ。

折り合いをつける。ということ。

理想を手放し現実を受け入れるとは、折り合いをつけることだと思った。

 

 

そんな日のお昼は、ひとまず韓国料理で幸せな気持ちになってみる。

 

 

自分をメンテナンス。

そして次に向かう為にチャージ。

 

もっと頑張ろう。やれることはたくさんたくさんある。

 

夢に背中を押される現象

昨夜まではいつも通り非行動的、慎重派だった。とてもいつも通りの夜。

 

だがその晩、謎の夢を見た。

めちゃくちゃゆっくり回るタイプのジェットコースターの夢だ。遠心力に頼らないで360度回転する、が売りの乗り物だという。なにそれ辛い。

それを恐れながらも大谷翔平ご夫妻とご一緒することになった。勝手に出演させてごめんなさい。

なぜか分からないけどご一緒する上に、ご夫妻と一緒なら乗り越えられる、という謎の安心感に包まれたところで目が冷めた。

 

パチッと目が開き、頭がめちゃくちゃクリアな感覚。たまにあるよね。

そして誰かに操られているかのように、慎重派の自分の意志とは思えぬスピードで今日の午後、美容院を予約。

 

5時間半後。

なんかもう、思い立ってから美容院の椅子に座るまでが、ジェットコースター級のスピード感。

慎重派の私からしたらあり得ぬ事態。通常ならこの椅子に座るまで最短1週間はかかるというのに。

 

そしてこれまた過去最短の長さにして頂き、今、私の頭皮も心も晴れ晴れとしている。

 

余談だが、切ってもらっている時は大体目をつぶっている。

目を開くのは、たまにボソッ…クスッ…とお話する時くらいだろうか。

いつもアイパッドの雑誌を差し出してくださるのだが、見るに至らない。

 

というのも目が開けられないのだ。

切って落ちてくる私の髪が、余りにも強すぎて目に刺さるのだ。

 

テグス。

もしくは、針金。

 

級の、太さとコシ。あれが細かくなって眼の前に落ちてくるのだからもはや目をくり抜く凶器に近い。

 

目をつぶってるとハサミのシャシャシャッて音が瞑想状態に誘導してくれる。

頭の中にいろんな考えが浮かんでは、気づき手放し、を繰り返した。

まずかったのはうっかりツレの美容院での居方の話を思い出してしまったことだ。

かなりニヤニヤしていることに暫く気が付かず、ピエロ並みに口角が上がってたことに気がつき、

 

慌てて必要以上に口角を下げた。

 

ツレは喋るのも苦手だし特にやることがないのだという。

じゃあカット中どうしてるの?と聞くと、

 

ひたすら自分の顔を見つめている。という。

 

 

色んな居方があるんだなぁ、世界は広い。

 

ノートが大好きだ

月の中盤も終わりに差し掛かると、来月の予定をそろそろ立てようか、となる。

 

予定といえば手帳。

 

私、18歳の頃から毎年欠かさず手帳というものと過ごして来た。

スマホのアプリがどれだけ性能が良くなっても、手帳をこの手で開くワクワク感にはとうてい敵わない。

 

 

手帳選びはもはや一大イベント。

選びぬき、一年を添い遂げた後の手帳はそれはそれは愛着があるものだ。

 

 

 

読み返す時の目玉は何と言っても、ノートの部分。

 

その瞬間急いで書き留めたであろう気づきみたいなのを見るのも、今見るとクスッとなったり、はたまた、?となったり。

 

また、

昔の自分がとにかく仕事やレッスンの予定を繋げることに躍起になっているのもビックリしたり。

 

なんていうか、エネルギー量が半端ない。

はて、あの頃の私はどこへ行ったのだろう?と人ごとのように首を傾げてしまう。

 

 

 

そんな感じで一種の読み物として楽しんでいるので、今まで手帳を捨てたことは1度もない。

全部コレクションだ。

 

 

 

 

18歳から数えると、15冊か。

 

正直めちゃくちゃかさばる。

 

カバーにボタンが着いているタイプの手帳もあるし、並べてみてもサイズもバラバラだし、統一感皆無。ふざけてる。収納にやさしくないのである。

でも捨てられないのである。

 

 

 

そんな手帳ミトコンドリア族の私だが、実は今年手帳を卒業した。

 

 

こんだけ手帳を語っておいて、なんなんだ。と己でも矛盾を感じている。

というのも、私は手帳の、ノート部分が好きなのだと今更ながらに気がついて、あれ?じゃあノートで良いじゃん。

なぞと、コロッと手のひらを返してしまった。

 

とにかくノートに気づいたことや、何でもかんでも、自由に書きたいのだ。

形式問わず。ご応募お待ちしております、なのだ。

 

しかし予定が見えないのも怖いので、そこはクロネコヤマトのおじさんにいただいた卓上カレンダーに書き込むことで、完全に手帳いらずになってしまった。

 

今や私は脱・手帳の鬼と化している。

 

しかし、今年は偶然戴けた卓上カレンダーも、来年もまた戴けるかどうかわからない。

そうなると、私はまた手帳ミトコンドリア族に戻るのだろうか。

 

分からない。全ての鍵はクロネコヤマトさんが握っている。

 

 

氷が解ける音を初めて聞いた

今日は異常に静かな夜だ。部屋の中で聞こえるのは、まぁせいぜいエアコンの音くらいだと思っていた。

 

が、どこからかごく小さな音量でテレビの砂嵐が聞こえると思った。

 

いつもなら気にならないか気が付かないだろう。でも今日は、音の出どころが気になってつい探してしまった。

 

最近、あるホラー映画のシリーズを最初から見倒しているから、我がホラーモードがオンになってる可能性が大だ。それで音に敏感になっているのかもしれぬ。

 

 

 

 

 

 

 

お分かりいただけるだろうか。

 

 

 

ちょうどすぐそこに焼酎をソーダで割って飲んだ後のグラスがあったのだ。その中から砂嵐の音がする。絶対する。

 

 

 

グラスには氷しか残っていない。

ソーダはもぬけの殻。ってことはこの砂嵐は氷の音?氷が出してる音、つまり氷が溶けていく音だ。違いない。

 

 

 

 

つまり今夜は静かな夜だと思いきや、全然静かじゃなかった。

 

 

今夜どころか、どうやら地球は常に音にあふれているらしい。

 

居酒屋さんなんて行ったらもう、音のデパート。

この砂嵐音が至るところから出ているのだ。

そんな中なのに特定の人の声と内容ってなぜか入ってくるよね。

それって、なんか、、ものすごい。いやものすごいなんて余裕で通り越して、怖い。ホラーだ。

 

 

 

 

 

どんな作りしてるんだ、わたしたちは。全く。感服です。