最近真面目が服を着て歩いているというような人に出会って、自分も以前はそうだったと振り返るに至った。
過剰に真面目な人はとにかく自分に「課している」事が多い。
多いというか、課さなきゃダメというくらいに課すことへの想いが強い?
課しているもののせいでいつも何かと戦っているような、何というか辛そうに見えた。
自分のままではいけない、とでも言うような苦しいエネルギーを秘めている感じ。
その人と接するうちに、私たちはなぜこうまでして自分を追い詰めるのか?と疑問に思った。
そうまでしてなぜ課すのか。
私の場合は今の自分では愛されない、という劣等感を感じているからだ。
さらには他人を信じられていなくて、自分一人でやらなくちゃと感じている時なんだと思う。
そういう自ら勝手に作り上げた世界越しに、世界を当てはめている傾向は誰しもあると思う。
そういえば以前ツレとの会話でこんなことがあった。
「親へ申し訳ないという気持ちが強くて、仕事のことで挑戦したいと思っても楽しいことを追いかけることが本当に申し訳なくてどうにも動けなくなる。」
とツレに言ったら、
「それ申し訳ないじゃなくて、ありがとう、に変えてみな。直接でも手紙でも日記でもいいから、まずそこからや。」と言われた。
試しに日記にありがとうの気持ちをツラツラと1ページ吐き出してみた。
すると不思議なことに書いているうち、私は私だったんだ、親とは別の人生を歩んでいるのだ。と気が付いた。
一個人の私、という線引きをしたら周りが見えるようになった。
周囲が自分の為にしてくれること、自分が周囲の為にすること、がすっきり見えるようになった。
そこまでの私は親から剝がれ切っておらず、親の足かせのような気持だったのだ。
そしたら「今の自分でごめんなさい」と思うことこそ、この世に産んでサポートしてくれた親に申し訳ないことなのじゃないか、と。
最高に幸せになることが関わってもらったすべての人への最大限の感謝の表し方。
だからその日記の締めくくりは、これからもっともっと幸せになります。だった。
同じ感じで、過剰に真面目な時もきっと自分しか見えてないのではないだろうか。「過剰に」の場合に限るけども。
逆にそういう気持ちが湧いた時こそチャンスっぽい。
今の自分はここまでは出来てここからは出来ない、で良いのではなかろうか。
ひっくるめて自分。
自分にとっての他人も皆全く同じで、そう。
出来ようが出来まいがもれなく愛される。
大事なのは一人で何ができるかじゃなく、どうやって人と助け合うか。
人ってそんなに大差ない。
そう思うと豆の集合体が個体差を競っているかのようで笑えてくる。
いや、人は豆ほど単純じゃないけど。うーん、太陽から見たら豆なのかな。