ルールを決めたのはもちろん人だよね。最初っからこの世に存在してたんじゃない。
だから、そのルールは本当にそのルールで良かったのかな?って疑問に思う。
ルールの正しさを常に考えてたほうがいいのだろうか?でもいつも考えてたら前に進めない。
ひとまずルール通りに進む?けどやっぱりさ、ルールがあるとつらい人が出てくる。ルールに漏れがある。
ルールを破って罰を受ける人は、どんな気持ちなんだろう?
世界のためにルールがあって、世界は皆の世界である。
と、言ってもそれは常に前を向いてる人の言葉だと思う。
私含めすべての人というものは、自分を後ろ向きにさせようと自分にブレーキをかける。
だしもっと色々詳細があって、具体的なのが個人って存在。でもルールは大まか。うーん、どうしたらいいのか。
だって多分ブレーキ付きの人は、そのルールは刺さらないから。そのルールの世界線とは別の世界に生きているから。
その人その人の目線でネジ締めをするって多分めちゃくちゃ大変なのだよね。個人間でネジ締め出来てればルールに触れる前にブレーキが溶けていって前向きな目線になって、前向きな目線になったらそこでやっとルールの意図に乗るんだよね。
皮膚がルール、個人は臓器。
自分の詳細に目を向けずルールに目を向けがちなのは、せっかちでめんどくさがりさん。つまり私。
多分、めんどくさがりでルールから外れると何かしら考えなくちゃいけなくなって、考える能力を使ってきてないからイライラするか怒り出す。
そして多分、自分の詳細の循環が悪くて滞ってる。膿みたいに腫れてるか、深い霧がかかったようになっているか。
んで、そこに触れそうになると不安を想起するはずだ。使ってきてない能力を使うとなると当然レベル1だから進みが遅いし効率が悪いように感じて焦ったりイライラする。もしくはルールが絶対だと思っているのでルールの肩を借りて、強行突破しようとしてくるだろう。
そこを何とか言語化して、分離して、「出来ない雰囲気」だと、ひとまとめにしないようにすれば、前に進み出す。
雰囲気に身を任せるのが私は楽。そっちの能力のほうが長けてると実感がある。気がついたら今ってことがよくある。
だからこそ言語化してアウトプットが得意になれば前向きで自主的な人生になるだろうと思う。
雰囲気の察知能力は肉付きの部分で、筋は言語化の部分。言語化の部分が私を引っ張るのだ。